2005. 12. 25.の説教より
「 飼い葉桶の主 」
ル カによる福音書 2章1−7節
今日の7節ですが、「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」との言葉から、みなさんは、どのようなことを思い浮かべられるでしょうか。おそらくは、身重の許嫁マリヤのことを気遣いながら旅をし、ベツレヘムの町に着いたものの、どこの宿屋も同じように旅をしてベツレヘムにやって来た人たちでいっぱいであったために泊まることができず彷徨い、やっと泊まる場所を見つけたかと思えば、そこは家畜たちが入っている馬小屋であったということ、そして、その馬小屋で救い主イエス様がお生まれになられたことを思い浮かべられることになるのではないでしょうか。保育園で、毎年、この時期に行っている「聖誕劇」では、親切な宿屋さんのお世話で泊まることができた馬小屋ということになりますが、聖書を見ていただいてもわかりますように、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったことと、マリヤからお生まれになられた救い主イエス様が、飼い葉桶の中に布にくるまれて寝かされたことしか語られてはいないわけです。ほんとうにそこが馬小屋であったのかどうかもわからないのです。ましてや、親切な宿屋さんがお世話をしてくださった場所なのかどうかもです。ところで、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と言われているところの「宿屋」という言葉ですが、以前、わたしたちの教会においても使っておりました口語訳聖書では、「客間」というふうに訳されておりました。つまり、「宿屋」と訳しても、「客間」と訳しても構わない言葉が、そこでは使われているわけです。普通の家の部屋を指す言葉と言っても良いかもしれません。この当時の家と言いますのは、よほどのお金持ちでもなければ、ひと間しかない家がほとんどで、そのひと間しかない部屋に、その家の人たちもお客も、場合によっては、家畜さえも寝ていたということです。よく、犬や猫、その他のペットを家族同様に可愛がっている方がおられますが、それと同じようにと言っても良いぐらい、当時の人たちは家畜を家族の一員であるかのようにしていたということなりかもしれません。
それに対してイエス様はと言えば、そのような家のひと間さえ得ることができないような状態の中で、家畜でさえも、自分たちの寝泊まりすることができる場所があるのに、イエス様は、そういう場所さえない中でお生まれにならなければならなかったということを、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」との短いひと言は、わたしたちに語っているのかもしれません。また、馬小屋にしても、だいたい、この当時、馬と言えば戦いに使う軍馬がほとんどで、一般の家や宿屋には馬小屋などないということですので、牛やロバ、羊などが入れてあった家畜小屋だったかもしれません。さらには、ベツレヘムの周辺には、家畜が入れられていた洞窟がけっこうあったということですので、そうした洞窟こそが、イエス様がお生まれになられた場所なのかもしれません。まさに、山の斜面を利用して掘られている洞窟がであります。今と違って、公害問題などない時代ですので、情景的には、星が空から降ってくるのではないかと思われるほど、はっきりと星がいっぱい見える夜空の星の下の洞窟のひとつに泊まって、何とか過ごそうとしていたヨセフとマリヤ、そのマリヤから、救い主イエス様がお生まれになられ、布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされたというものであったかもしれません。そういう意味では、なかなか泊まることができる場所を見いだすことができず、さんざん彷徨い、やっとだどり着いた場所、泊まるための場所というのが、その洞窟であったのかもしれません。一説によれば、この飼い葉桶は、地面にではなく、少し高いところに吊されていたのではないかとされています。ほんとうにそうなのかどうかはわかりませんが、地面の上では、いつ家畜が暴れて、飼い葉桶を蹴ってしまうかもしれませんし、踏みつけてしまうかもしれないから、というのがその理由だということです。たとえ、そうしたことが懸念される状況があったとしても、生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせた飼い葉桶を、少し高いところに吊して置くというのは、あまりにも不安定でかえって危険なのではないかとさえ思われるわけです。ただ、そういうふうな説も出てくるというのは、そのときのイエス様が置かれていた状況というものが反映されてのものなのかもしれません。
このルカによる福音書の9章58節に、イエス様のこういう言葉が記されています。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」「人の子には枕する所もない。」明らかに、イエス様は、ご自分には枕するところ、安心して休むことができる所、場所がないと言っておられるわけです。安心して休むことができる所が、場所がないと言いましても、実際に、身を横たえることができる場所がないということではなく、心を休める余裕がない、それも、わたしたち人間の罪深さ、弱さのことを思うと心を休める余裕などないという意味で言われたのかもしれません。イエス様の周りには、それなりにイエス様とお弟子さんたちのお世話をする人たちも、家もあったようですので、身を横たえることができる場所がないということなど考えられないからです。そうした思いになることは、わたしたちでもあるのではないかと思われるのですが、様々な心配事や悩み事があって、夜もおちおち眠ってはいられない心境になることがです。まさに、イエス様は、わたしたち人間の罪深さ、弱さのことを思って、そのような思いになっておられたのかもしれません。
それと共に、イエス様の場合、そのご生涯というものは、イエス様ご自身、その予告をされておられますように、十字架の死に向けてのものであったからです。バラ色の人生を思い描くことができるようなご生涯ではなく、あくまでも十字架の死にまっすぐ向かってのものあったわけです。それも、わたしたち人間の罪深さ、弱さをご自身の身に負われるためのものであったわけです。マタイによる福音書20章17節以下ですが、「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」との言葉などは、まさに、イエス様のご生涯が十字架に向かってのものであったことを言い表しているものなわけです。そうしたイエス様の十字架に向かってのご生涯が、イエス様がお生まれたときからすでに暗い影として差していたということが、生まれたばかりのイエス様が布にくるまれて飼い葉桶に寝かされたことにおいて表されているものと考えられます。
そうしたイエス様のお生まれを、暗い影が差しているイエス様のお生まれを記念するクリスマスを、わたしたちが「メリークリスマス」、「クリスマスおめでとう」と言ってお祝いするのは、わたしたちにとって、どういうことなのでしょうか。「おめでとう」とばかり言ってはおられないことをお祝いしていることにもなるとも考えられるからです。それでも、なお、わたしたちがイエス様のお生まれをお祝いすることができるとするならば、その十字架が、その暗い影が、このわたしの罪深さと弱さのためであり、わたしたちが罪深さと弱さをあいもかかわらず引きずっているにもかかわらず、神様の御前には、罪深さと弱さから解き放たれたものとして生きることができるものとされていることを、しっかりと受け止めていてこそとなるのではないかと思われるのです。コリントの信徒への手紙第二8章9節に、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」という言葉が記されていますが、イエス様に差していた暗い影は、まさに、わたしたちが豊かに生きることができるためであったわけです。